カポーティの庭

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約一ヶ月ほど前に札幌のジュンク堂で”Tiffany's At Breakfast”を買って、僕はそれを鞄につめて飛行機に乗り、その結果として今ここにいる。
そして数週間前にAmazonで”The Complete Short Stories Of Truman Capote”というカポーティの短編集(もちろん古本である)をだいたい600円くらいの値段で購入し、僕はこの本を最初から順番に読んでいくのではなく、毎晩寝る前に、ランダムに、大切に、ひとつずつ読んできた。
それからカポーティについて興味が出てきて、「カポーティ」という「冷血」を書き上げるための彼についてのよくできた伝記映画をもう一度TSUTAYAで借りてみたり、ジョージ・プリンプトンによる彼の伝記を安い値段で買ったりした(こちらはちらほらとは目を通してみたが、まだちゃんと読んではいない)。
映画の「カポーティ」に関しては、フィリップ・シーモア・ホフマンが顔からしゃべり方、身のこなし方やたたずまいまでカポーティ本人によく似ているし、チャーミングで好感が持てる。過度にドラマチックにせず、あくまで淡々としていたのも心地よかった。
これは個人的な感想だが、この映画の監督はカポーティが「冷血」を書き上げるまでを、実際に自分の目で確かめてみたかったのではないかと思う。
自分でカポーティの足跡を辿ってみたいという私的な動機をなんとなく感じた。
だからこれは監督の芸術的映画作品というよりは、彼と、カポーティと、そしてカポーティを愛する僕たち読者のための映画なのではないか、と。
実は僕はこの映画をカポーティを読む前に好奇心で見ているのだが、彼の小説を身を入れて読んでからでは、やはり感じ方がまったく違った。

頭の中でカポーティに対するさまざまな思いが渦巻いてとまらない日々が続いているので、一度消化するために、拙いながらも、僕はこうして朝の4時に、そして僕の記念すべき19回目の誕生日であるこの日に思い切って文章にすることにした。

カポーティの作品世界においては、主人公が大切に思っていた人々が主人公の元から去っていったり、あるいは主人公のほうが避けられない事情で大切に思っている人の元を去らねばならなくなる、ということが多々起こりえる。
これは彼の個人的な人生の記憶に基づいている。
そしてこれは僕の個人的な推察であるが、カポーティは、彼が幼かったころに彼に起こった出来事をいつまでも頭から拭い去ることができずにいた。
幼いころに母が自殺、親戚の家を盥回しにされたというカポーティ。
彼が作品の中で何度も登場させた60歳くらいの、純粋で傷つきやすい繊細な心を持った女性、ミス・スック。
おそらく、ミス・スックは彼が幼いころ親戚の間を盥回しにされたころに出会ったベスト・フレンドだったのだろう。
ミス・スックとバディー(幼きカポーティがモデルだと思う)の短編の舞台はほとんどの場合、クリスマスで、二人はフルーツ・ケーキをつくったり、ウィスキーを飲んでみたり、クリスマスプレゼントとして銘々で作った凧を交換したり、しかし最後には引き離れたりする。
僕が常々思うのは、カポーティ初期の短編集においては、時間軸が”今”に設定されていないことである。
これは小説の作品世界が、主人公が属している時間よりも前の中で進行する、という意味でもあるが、僕が言いたいのはそういうことではない。
例えば主人公の少年がベッドの中でサンタ・クロースがやって来るのを待ちわびている場面が”現在”のものとして描かれていても、”それはどこか過去に起こった出来事であるかのように”感じられる。
もちろんその理由は明白で、純粋な心の持ち主だったカポーティが彼の少年時代に感じたことを、カポーティは乗り越えるために書いているのだからだと思う。
この彼の短編に覆いかぶさる思い出の透明なヴェールが、ほんとうに美しいんだ...。
どこかの誰かの少年時代の記憶を覗き穴から覗いているような感覚に陥るんだけど、同時にその少年のイノセントな心が読者の心に流れ込んできて、それらが美しい調和と作用を起こして感動をもたらす、そんな小説だ。

しかし、カポーティの短編の中にはシュールレアリスティックで不気味で奇妙なものも多い。
カポーティの初期の短編は、夜の顔と昼の顔に分けられるだろう。
この作品をもってして、アメリカ文学界に「アンファン・テリブル」と言わしめた彼の華々しいデビュー作「ミリアム」。
これなんかは夜の顔だ。
しかし、夜の顔も昼の顔も、同じ人物の顔の影の当たり方の違いに過ぎない。
どちらもカポーティの記憶や傷つきやすい感性がその出発点なのだ。

彼の小説の登場人物の影はカポーティの影。
だから彼の小説には、カポーティ以外の人物は出てこない。
入り込むことができない。

「ミリアム」なんかでは、それが非常にわかりやすくあらわれている。
未亡人ミス・ミラーと不気味な謎の少女ミリアムの関係性がそれである。
カポーティと、彼の潜在的な内面世界の関係。

「クリスマス・メモリー」などでも、やはり同様の関係性が見られる。
バディーがカポーティなら、単純に考えるとすれば、ミス・スックはミス・スックだろう。
ところが違う。
ミス・スックもまたカポーティなのだ。
カポーティの短編は、彼一人による影絵芝居のように進行していく。
ここはいわばカポーティが自分のために作った美しい庭。
しかし、文章という入り口によって、美しい秘密の庭への扉はわれわれ読者にも開かれている。
そしてその庭へと入った僕もまた、カポーティが操る彼の小説の通行人Aになるというわけだ...。
さあ、現実に戻る時間だ。
本を閉じて、ベッドに入ろう。
そしてカポーティの庭の夢を、僕らみんなで見よう。
バディーや、ミス・スック、おじいさん、若くて金持ちの素敵な父親、自殺してしまったバディーの母親がいる世界の夢を。
どこに通じているのかは、誰にもわからないけど。

風邪をひいた。
喉が痛くて朝方に目が覚めた。
僕は眠りが浅いので、一度起きてしまうとなかなか眠ることが出来ない。
自分のこういった体質を知っているので、それからずっと起きていた。
時間が経つに従って喉はどんどん痛くなってくる。
気付いたらまっすぐ立つのが難しくなっていて、何度も冷蔵庫や棚に体をぶつけた。
食欲はなかったけど、とりあえず何か食べておいたほうがいいと思ったので、スーパーで買った惣菜を食べたが、なんだかだるいし、胃の具合も良くないし、あとは残してしまった。
僕は眠りに落ちた。
だるいし、いつもより離人症的な感覚に陥っていたし、とにかく気付いたら眠っていた。
それが昨日のことである。
今朝目覚めると、喉は痛いままだった。
体もだるいままだった。
世界と密着しているなんて感覚も、失われたままだった。

とりあえず24時間営業の近所のボロいスーパーに行って、ポカリスエット1.5リットルを買ってきた。
それからyoutubeで"Seven Ages Of Rock"を見ながら全部飲み干した。
昼にラーメンを作って食べて、起きたら夜の8時でした。

陽光に包まれながら眠ったのに、起きたら漆黒の闇の中。
数分間自分が何処にいる誰なのかわからなくなって混乱したけれど、気分は幾分すっきりしていた。
明かりをつけて、冷蔵庫の中にあるものを食べて、それから風呂に入って、僕は生還した。

2012/4/18

無題

僕が日々あったことなどをどこにも書かないのは、僕の人生は日々何もないからです。
などというと、それは悲観的なようにあなたの耳には聞こえるかもしれませんが、僕は悲観的な感傷になんて浸らない。
僕は自分のリズムを誰かに乱されることが嫌いなのだ。
ときには自分で自分を乱してしまうこともあるけれど、それは自分のせいなので、やはり責任の所在も自分にありましょう。
でも誰かに乱されたときには、責任の在り処は僕が一人で問題を抱えているときよりも、さらに複雑になってしまう。
つまり、めんどうくさいんだ、僕は、そういうの。

東京の下町の古本屋で、学校帰りのうだつのあがらないような女子中学生が立ち読みをしているところなどを見ると、僕はここは東京なんだと実感します。
日暮れの陽差しの差し方、空気の澄み方、空気の匂い、そういったよしなしごとが全て北とは違うのです。
僕は思わず、その女子中学生が本に目を落としている光景に僅かな間見惚れてしまった。
北にいれば、さほど美しいともいえないであろう"彼女が本を読む"光景に。

同じ古本屋の近く、同じ日暮れの刻、ボロい団地の前で2人の男の子と1人の女の子が立ち話をしていました。
彼らはどうみても中学生です。
制服を着ているし、顔立ちは高校生というにはあまりに幼い。
男の子のうちの一人、太ったほうが、

"18才になったらさあ!"

と変声期独特の、ほかの人からみれば少し不気味な爬虫類のような声でほかの二人に大きな声言いました。
そのほかにも「学割」「お寺」(いったい学割とお寺にどんな関係性があるんだよ?)などという単語が僕の耳に聞こえてまいりましたが、いずれも断片的で脈絡がつかめず、それなのに"18才になったらさあ!"という太った少年のその言葉だけがいやにじんじん僕の耳に木霊しました。

そのとき僕は、誰にも聞き取れないくらいの小さな声で

"僕が18才だ"

と呟いてしまったのだ。

僕の姿を見て13才に向かって走り出した彼ら3人の少年少女の背中を見ながら、僕は悲痛な高笑いを浴びせかけてしまいました。
僕の高笑いは、夕暮れ刻のボロくて閑静な住宅街にいつまでもいつまでも木霊し続けたそうです。


そういえば、唐突に南条あやは世田谷に住んでいたのだということを思い出した。
僕は出来るだけ南条あやの話はしたくないのだけど―だって僕はメンヘラだと思われたくないし、事実メンヘラでもないし、彼女の話をしているとその明るい文体とは裏腹に僕自身までもが不健康なサイクルに陥ってしまうから―でも世田谷といっても広いね。
僕は今でもたまに南条あやの日記を読みます。
よく言われていることですが、彼女の鮮明な写真はそんなに多くを見ることはできないし、遺されたのは膨大な文章だけですが、彼女は何者かになる前に死んでしまった。
"何者でもない"
僕は彼女は"何者でもなかった"という事実に、僕は大変惹かれます。
世の中に書簡集が書籍として出版されている多くの人たちは"何者か"だから。

名もなき女子高生の影が、東京の街を、僕の横をすりぬけていったのだと考えると、なんだか少し救われるような気がします。
同時に僕もいつかはそうなるのだろうかと思います。
僕は影になんてなれないのに。
僕は最初から影だから。

なんて。
うっそぴょーん。

世田谷ではないけれど、新宿に行こうとして間違って乗ってしまったよくわからない電車に僕は1時間くらい(この電車は僕の行きたいところには着かないことに気付いていたにも関わらず)揺られていたのですが、南条あやの母校の名前の刺繍がされた鞄を持った女子高生が途中で乗ってきました。
それを見た僕はその電車を降りました。
そして正しい電車に乗り換えて、"現実"に帰ってきました。


ただいま。


僕の病気が治ったら、僕は羽根木公園に行きたいと思っています。

Never Let You Go

僕が17回目の誕生日を迎えたとき、17才の僕は永遠に闇の中に葬り去られることになった。
できることなら僕としては、いつまでも彼と一緒にいたかったのだけれど、気付いたときには遅かった。
彼はもう僕の手の届かないところに行ってしまっていた。
17才の僕が、二度と18才の僕の元に帰ってくれることはなかった。
でも、それはそのときに気付いたことだが、僕が17才になったときには16才の僕もやはり同様に僕の元から去っていき、二度と帰ってこなかった。
15才の僕もそうだ。
でも、14才の僕だけは違う。
14才の僕だけは、今でも18才の僕の元に帰ってくる。
14才の僕はいつも午前三時の漆黒の闇の中にその身をおいていて、寒い寒いと震えている。
僕は彼のことを心から気の毒に思うけれど、不幸なことに何もしてやれない。
何故なら彼が僕のもとに帰ってきているとき、僕は髪の毛一本の差異もなく彼になってしまっているからだ。
そのような場合には、誰かが何か励ましや労りや慰めや憐憫や同情や愛の言葉を僕に囁いても何ひとつとして意味も効果もない。
そのような場合には、誰かが黙って僕の手を握るしかない。
その手が冷たかろうが、暖かろうが、そんなことは14才の僕にとってはどうだっていい。
しかし僕の手を握ってくれる人は今ではどこにもいない。
僕は一人で震えているしかない。
でもそのうちだんだん震えているのが楽しくなってくる。

朝が来たら、14才の僕は18才の僕のもとから離れていく。
僕は自分が14才の少年になって震えていたことなんてすっかり忘れている。

悪いけど、ほんとうに悪いと思うんだけどさ、僕は14才の僕があらわれないように、彼が姿をあらわす前にベッドに潜り込んでしまわなければならない。
ほんとうに、そうすることができたらどんなにいいだろうね?

2012/4/13

僕が全精力を注いで、絵を描きたいと思うのなら、僕は散文を書くことを完全にやめてしまうか、あるいはてきとうに手を抜いて散文を書かなければならない。
僕が全精力を注いで、散文を書きたいと思うのなら、僕は絵を描くことを完全にやめてしまうか、あるいはてきとうに手を抜いて絵を描かなければならない。
もしどちらも本気でやっていると公言する自称芸術家がいたのなら、そいつはきっとどちらも手を抜いてやっている。
自分は本気だと信じ込んでいるだけだ。
そいつはきっと、猿に似ていることだろう。

そして今のところ、僕は手を抜いて散文を書いている。
プロフィール

青木檸檬

Author:青木檸檬
1993年生まれ。

blueskyblue98@gmail.com

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